an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

『アウシュヴィッツは終わらない』プリーモ・レーヴィ

アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』を読む。
ええ〜この晩秋にさらにうすら寒くなるようなこんな本・・・勘弁してよ、と思ったそこのあなた、まあそう言わずにちょっと聞いておくんなせえ。

原題である「これが人間か」という言葉から思い起こすイメージのとおり、ラーゲル(強制収容所)での戦慄と絶望の実態が書かれている。
その重い内容にもかかわらずページを繰る手が止まらないのは、本書が声高な告発口調ではなく、そう、まるで精緻なレンズが焦点をあわせてゆくかのように、名もなき人物のバックグラウンドを探り、一瞬浮かぶ表情に注目し、その精神の動きを慎重に映しだそうとしているからだろう。
過度の感情移入と抽象表現が抑えられたごく平易な言葉で語られることにより、「特異な出来事」としての恐怖と絶望の生々しさではなく、「私、および私の隣にいる人間のありさま」がより切実に伝わってくる。。
ユダヤ人」と一言でいっても住む国はさまざま(私は著者ではじめて「イタリア系ユダヤ人」なる存在を知りました)、当然話す言葉も異なり、ドイツ語がわからない焦燥と混乱を描き、また同じ囚人同士でもヒエラルキーが歴然と存在し、スプーン1本、シャツ1枚を得るのにそれぞれどのような取引がなされたか、精神的、肉体的危機をどうやって乗り越えようとしたかを描く。
ガス室でいついつ何人がどのように」というような、当時著者が知りえなかったことは書かれていないので、『夜と霧』があまりに恐ろしくて読みとおせないという方でも(←私もです・・)、本作はぐいぐい読めてしまうのではないだろうか。

もうひとつ私の心を揺り動かしたのは、「若い読者に答える」と題された追記だった。それは、「あなたの本にはドイツ人への憎しみ、恨み、復讐心の表現がありません。彼らを許したのですか」「ラーゲルではなぜ大衆的な反乱が起きなかったのでしょうか」というような、端的かつ率直な、傷口をえぐるかのような質問に懇切丁寧に、これ以上ないほどの誠実さで答えているのだ。「語り伝える」ことを選んだ人の、強い覚悟を感じずにはいられない。

(大多数のドイツ人は)ナチズムへの同意に対する無罪証明に、無知を用いたのだ。目・耳・口を閉じて、目の前で何が起ころうと知ったことではない、だから自分は共犯ではない、という幻想をつくりあげたのだ。(中略)この考え抜かれた意図的な怠慢こそ犯罪行為だ、と私は考える。

この冷徹な眼差しと深い洞察は、中井久夫の文章から受ける感触に少し似ている。
語られたものが結晶のように心に残るところも。



      


(2011年11月14日記)