an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

読んだ本とか

あれこれ書きたいことが溜まって、さて何から始めようかといった塩梅なのですが、一つのキーワードでつながるものがポンポンポンと思い浮かんだので並べてみました。よろしければ、お付き合いください。


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まずははこちらから、キーワードは「震災後」。

非常時のことば 震災の後で

非常時のことば 震災の後で

◆『非常時のことば 震災の後で』高橋源一郎
私は高橋源一郎の小説が好きじゃない。
タイトルからしてあざとさを感じる奇天烈な小説の数々は、秀才が一生懸命悪ふざけしているようにしか見えなかったし、実際読んでもまるでのれなかった。
善し悪し抜きで波長が合わない、ってヤツ。
誰にでもそういう作家はいると思う。
そういうわけで長年冷やかにスルーしていたが、『恋する原発』というタイトルを見た時はさすがにぎょっとした。ネット上では些細な言葉尻を捉えて不謹慎だなんだと毎日大騒ぎしていた頃である。何か途方もない事をしでかしてくれたかもしれない、という淡い期待を抱いて思わず手に取った、が。
・・・・・・駄目、全然。
もしかして『スローターハウス5』や、映画『アンダーグラウンド』みたいなものにしたかったのかな・・・とうっすら思うのだけど、登場人物に物語を引っぱるだけの魅力がないし(←致命的)、AVだあ乱交だあと素材だけ過激を装って、人の心を動かすうねりや力が感じられない。
あえて荒唐無稽な手法を使って「現実に起こってしまった悲劇」に対峙しようとするならば、身体が震えるような衝撃(一瞬でも)と、「起こり得るかもしれない」と思わせる確かな手応えを持った、もう一つの物語を死に物狂いで作り出さなければ。
これでもうホントにこの人はいいやと思ったはずなのに、懲りずに手に取ったのは小説じゃなかったから(笑)。

震災を機にほとんどの文章が読めなくなったと著者は言う。自分でも何故だかわからない。
でも稀に、すうっと「読める文章」が現れる。どうしてそれは読めるのだろう。
その答えを求めて、読者と一緒にそぞろ歩くような、そんな本だ。
ある時は加藤典洋さんが震災での困惑を書き付けたメモ書きのようなもの、ある時は『苦海浄土』、ある時はジャン・ジュネが書いた戦場と死者の記録、またある時は川上弘美のファンタジー『神様』、堀江敏幸の子育て小説『なずな』、山之口貘の詩、リンカーンの有名な演説の一節・・・一読、てんでバラバラに思えるこれらの散文から、恐るべき鋭敏さで共通のエッセンスを一つ一つ掬いだす。
もともと書評の切れ味は抜群で、物語の「とっかかり」を探し出して、気持ちのいい落ち着きどころを見出すのがうまい人だ。人がさっさと通り過ぎる場所で「あ、こんなところに花が」と気付くタイプの、言葉に対して真摯で誠実な人なんだな、と改めて感じ入ったのだった。
次は小説でがんばってくれたまえ(←何様)。


「私」は「私」を肯定するために、「私」以外の誰かを必要としていたのである。
「私」以外の誰か、それは、ことばを持たない、「小さな」誰かのことだ。こちらから手を伸ばさなければ、助けなければなにもできない、か弱い、なにものか、のことだ。
そのような者たちについて書かれた「文章」は、そのような者たちを庇護する人たちの行いに似て、囁くように語られている。ぼくは、いま、そんな「文章」なら読むことができるのである。
                   (『非常時のことば』より)



想像ラジオ

想像ラジオ

◆『想像ラジオ』いとうせいこう
もちろん著者のいとうせいこうに格別の興味はない。
ただ断片的な情報によると、彼はこの震災にずいぶん心を痛めていて、ボランティアをはじめ被災者のための活動を長くやっておられるとか。
見るからに聡明そうな人物でもあるし、よもや噴飯モノの小説を書くこたぁあるまい。どれどれお手並み拝見・・・ってな高飛車な調子で読み始めたのだ。

きっとこの人も同じように、震災後に文章が読めなくなったのだろう。音楽ばかり聴いていたのだろう。その音楽と、(おそらく)被災地で実際に耳にしたある人の死に様が、ある日天啓のごとく結びついたのだと思う。
DJが主人公の軽妙トーク小説なのだけれど、まったく驚いたことに、起こってしまった悲劇に向かい合うことのできる、「起こり得るかもしれないもう一つの物語」が誕生した。

・・・こんなチャラい兄ちゃんのトークで泣かされたのは初めてや・・・(笑)。


(2013年5月7日記)