an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

SFを読んでみた

ジャンルなんて関係ない。おもしろければなんでも読む。
・・・というスタンスでいたいとは思うものの、特に小説の場合なんかだと、普段あんまり積極的に手を出さないジャンルってものが誰でもあると思うのです。
私の場合、延々と続くような歴史小説は読んだことがないし、海外文学の古典もほとんど手つかずだし、込み入った伏線があちこちに張られている推理小説というのもなかなか手が出にくい。SF、というジャンルもそのひとつ。
2001年もソラリスも電気羊も映画があまりにも素晴らしくてすっかり満ち足りてしまったため、改めて原作を読んでみようという気にならなかった・・・いや、ちょっとまて。
ここであえて原作を読んで比較検討、という姿勢もアリなはずなのにそうしなかったのは、想像を超えるような世界のビジュアルや理論を自分のアタマで組み立てて再現する作業がおっくうなんだな、きっと。漫画や映画ならダイレクトに受け止めるだけでいいわけですし。
なのでアイザックアシモフの短編やハインラインの『夏への扉』など古典的名作もいまひとつ大きな印象を残さず、どちらかというと感傷的で文学的で、いかにも女性が好みそうな『アルジャーノンに花束を』や、カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』などもどうもしっくりこなかったのである。
なんていうかな。著者が構築した世界とうまく波長が合わないと、SFだけについつい「んなわけあるかいな」とミもフタもなく興ざめしやすい・・・そういう意味では、相性というのが特に重要なジャンルなのかもしれません。

さて、ここで。
そんな私のしょぼいSF感をものすごい勢いで覆した作品を紹介したい。
伊藤計劃虐殺器官』。
ご存知の方はどれくらいいるだろう。もちろん私もついこの間までまったく知らなかった。たまたま、大森望、柳下穀一郎、山形浩生といった、SFが好きで好きで、物心ついた頃から古今東西の傑作・凡作・珍作・駄作を読みまくった(←推測)上に翻訳までしちゃった♪・・・という筋金入りのSF好きのお歴々がそろいもそろって絶賛しているのをどこかで見かけたのだ。これはもうどうしたって気になるではないか。

政府機密機関に所属する一人の言語学者が突然行方不明になる。その後、世界に頻発する大虐殺の背後にちらちらと見え隠れするその存在。本来身内であるはずのその謎の男を暗殺するため、米軍大尉シェパードはプラハへと向かう・・・
まあ、物語のすべり出しは『地獄の黙示録』の近未来版、といったところか。
エンタテイメントの王道であるところの「追う者と追われる者」との攻防、殺戮場面の生々しさ(少し前、ノンフィクションの快作『カラシニコフ』(松本仁一著)で少年兵の悲惨さを読んでいたのでさらに)、情報が社会を覆い尽くすとどんな恩恵を受けてなにを失うのか・・・淡々とした筆致(←これにも理由があるのだ)ながら、戦慄するようなリアリティがあり、本当に読み出したら止まらない。

閾値、という言葉がある。ある反応を起こすのに必要な、最小の強度のことである。
あらゆるものの閾、「どこからが意識なのか」「どこからが死なのか」「どこからが罪なのか」「どこからどこまでが“わたし”であるのか」「ことばはどこからやってきたのか」・・・というような形而上学的な問題を思いがけない形で突きつけられる場面が何度も挿入され、その度に私は答えに窮して呆然と立ち尽くしてしまう。ここには、生半可な感情論の入り込む余地がない。
どうやら私は、ことSF小説に関しては、風変わりな理論がちくちくと知的好奇心を刺激するようなものより、また深く静かな思索をたたえた廃墟を思わせるものより、さらにはロマンティックな幻想の衣をまとったものよりも、胸ぐらをつかんで揺さぶられるような物語に惹かれてしまうようである。
人様のレビューを拝見すると「良識的知識人であるチョムスキーの学問的業績(変形生成文法)をパロってみせた作家としての悪意に志の高さを感じた云々」といった言葉もあり、そうそう、MITの先生なんだよな。虐殺の文法・・・チョムスキー言語学か。また勉強せないかんことが増えたなあ。


伊藤計劃。プロジェクト・イトー。享年 三十四。
「作戦終了です。・・・お疲れ様」


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ガラリと話題を変えまして。
電子書籍の登場で、本で生計をたてている人たちの環境をめぐって喧しい今日この頃。そんな中、本屋さんが書いたおもしろい本をたて続けに読んだので、ちょっとご紹介。

◆『ぼくは本屋のおやじさん』早川義夫

晶文社のロングセラー「就職しないで生きるには」シリーズでおなじみの本作。
いや僕だってね、こんなグチばっかり言いたくないんだよホントは。本屋さん好きだし。でもさ、ちょっとヒドイと思わない・・・?というような弱気な前置き付で、大手出版社や取次ぎや客から受ける理不尽な仕打ちのあれこれが苦笑交じりに、時に切々と語られる。
・・・たしかに本当にひどい(笑)。
本屋さんがこんなに大変とは思わなかったし、そんな中で健気にがんばったり力抜いたり、著者のにじみ出る人柄が好ましい一作。おすすめです。

蛇足ながらこの人、「なるべく人付き合いはしたくない」だの「早くじいさんになりたい」だのと枯れたことを言いながら、実はちゃっかり女好き。いくばくかをお支払して遊んだ後、「ちょっとアタマが弱くて舌足らずな感じの肉感的な女性が好きで・・」などと悪びれもせずいわれた日には(嫁もコドモもいます、はい)、えらいまた正直な人やな、と笑うしかない。・・・こういうことって、フツーもっとカッコつけていうよね。
含羞と愛嬌とトホホがブレンドされつつ、けっこう詩的なスケッチになっている『たましいの場所』も、興味がおありならぜひ。こういうのって、簡単に書けそうで書けないんだよな。

◆『古本屋 月の輪書林高橋徹

これもまたすごい本だったなあ。
こちらは店頭販売ではなく、「目録での注文販売」の古本屋さんである。古本屋さんがどんなふうに本を仕入れて目録を書いて販売するか・・なんて全然知らなかったし、それだけで充分興味深い本なんだけれど、この著者ときたら“狂”と評したいほどの本好きで、もちろん目利きで、「何もかも知りたい」といわんばかりの本に対する貪欲さがすさまじい。素敵な彼女もいるし、ないのは金だけだ。

消えた人、消された人、忘れ去られた人。本が人であるなら「ゴミ本」の中から一人でも多くの魅力ある人物をみつけだし再評価したいものだ。

市場で“ダンボール(の中の本)がにおう”ようになれば古本屋も一人前。
いやはや、まいりました。


(2010年6月7日記)