医学書院といういかにも堅そうな名の出版社に、「ケアをひらく」と名付けられたシリーズがあるのをご存じだろうか。
最初の出会いは『べてるの家の「非」援助論−そのままでいいと思えるための25章』だった。似顔絵や四コマ漫画がいっぱいのニギヤカなページからは、統合失調症の深刻な陽性症状の一つである幻聴を「幻聴さん」と呼んで慣れ親しもうとしたり、「幻覚妄想大会」を企画して皆の前で日々の成果物(←?)を披露するメンバーの姿がいきいきと描かれていた。
今でこそべてるの家はすっかり有名になり、少々突飛なソーシャルワークに対しても、こういうアプローチもありかな・・・と思ったりするけれど、初めて読んだときは衝撃的でさえあった。
病や障害、老齢などネガティヴなイメージを持たれがちな事象から、ほんの少し角度を変えることで「思いがけない在り方」を見出し、それをエッセイ風のやわらかな口調で語る・・・というのがこのシリーズに共通した特色だ。それぞれの体験に根ざした著者の思いに触れるのは、時に目の覚めるように新鮮だったり、ほんのり安心感を得たりして心地のよいものだった。
澁谷智子著『コーダの世界』もまたそんな読後感を与えてくれた1冊。「コーダ」とは聞きなれない言葉だが、「Children Of Deaf Adults」の略語で「聞こえない親に育てられた聞こえる子供たち」のことである。アメリカで作られた新しい用語だそうで、「聞こえない人の文化である「ろう文化」を受け継いでいる存在」という言葉にまず引き寄せられた。
また、続いて引用された「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である。」という「ろう文化宣言」の一節は、手話は聞こえない・話せない人たちのための間に合わせ的な伝達手段であり「補足的なコミュニケーション・ツール」とうっすら思っていた私などは蒙を啓かれる心地がしたが、本書でこのように堅い文言が登場するのはここだけ、社会科学的な記述含め全編とおして肩ひじ張らないカジュアルな調子で語られる。
ところで私は毎夏手話研修センターでの仕事があるのでよくわかるのだが、手話で話しかけられるとまず身振りがとても大きいし、こちらをじっと凝視されるし、口話(を伴う場合)は不明瞭だし、慣れた人でないと少々たじろぐかもしれない。
「なぜ(ろう者の表現は)そのようになるのか」そして、「それを(コーダは、あるいは私たち聴者は)どのように受け止めるのか」・・・ろう者の卓越した観察力、手話の多様な表現力を具体的エピソードに即して丁寧に拾い出す。
主に困惑や違和感として現れるコミュニケーション・ギャップを、「文化の違い」と受け止め、さらには「コーダ」という境界線上にいる存在を介して考察しているところがユニークだし、そうすることによってポン、と一つ膝を打つようなわかりやすさがあるのだ。
「普通赤ちゃんは泣いて呼ぶけれど、息子は、添い寝をしていると、先にトントンとたたいて、親が見ると泣き始めるようになった」とか、聴者との通訳として幼いころから大人の会話に参加しなければならなかったコーダの複雑な心境だとか、ちょっぴり切ないエピソードも多いのだけど、留学先のアメリカでのエネルギッシュなろう者たちの話、同じ境遇の人たちが手を取り合う様子など明るい話題も随所に織り交ぜてバランスよくまとめている。
当然のことながらろう者もコーダも「実に多様で変化に富ん」でいるのであり、その姿の全貌を描くには「限界がある」と書き留めているところも誠実な姿勢を感じるな。
「ケアをひらく」シリーズの近刊では岡田美智男『弱いロボット』、六車由実『驚きの介護民俗学』などが話題になっており、ぜひ読んでみたいと思っている。
医学書院のHPをチェックしてみたら・・・今一番読みたい本の、実におもしろい「制作こぼれ話」が出てきました。・・・さすが目の付け所が違うね。
http://igs-kankan.com/article/2012/09/000666/
(2013年3月19日記)