震災は あなたの〈何〉を変えましたか?
震災後、あなたは〈何〉を読みましたか?
タイトルにひかれて「新潮」4月号を購入。
(それにしても、しばらく見ないうちに文芸誌も表紙がずいぶんモダンなデザインになりましたな。あの「群像」でさえも!)
寄稿する顔ぶれはずいぶん異なるだろうが、これなら今は亡き文芸誌「リテレール」でもやりそうな企画だな・・・なんて思いながら買ってみたのだった。
「なんとなく」手に取ったら「思いのほか」私の心にひびいた本、というのを紹介いただけるのが最も好ましいが、しかつめらしく「この本は大変勉強になるのでぜひ読むがよかろう」というご教示も粛々と受けとめたい所存だ。
なにしろ東北のことも原発のこともほとんど何も知らないのだから。
期待していた町田康はやや乱調ぎみで足元がおぼつかない様子(それが持ち味ともいえますが)、平野啓一郎は「生/死」「有/無」といった語句を巧みに操って哲学的考察を示唆するもどこか上滑りな感じ。あと中村文則という作家が「ドストエフスキー、カミュ、カフカ、サルトル、芥川龍之介、太宰治、石川淳、大岡昇平、安部公房、三島由紀夫。」などと列記していて、「うっひゃー、高校生の推薦図書かよ!!」と思わず笑ってしまったり、いささか拍子抜けしつつもどんどん読みすすめる。
加賀乙彦や古井由吉ら老大家の、戦時中の影を重ねたような文章にはさすがに年月の重みと人物としての貫録を感じたが、「震災は基本的に私の何も変えなかった」という水村美苗のクールな視点や、震災を肌身で感じることはほとんどなく、被災地にも行かない自身を「臆病者」としてなにやら弱腰な感じの田中慎弥らの言葉が、意外にもしっくりなじむような感触があった。
よしもとばななと松浦寿輝が漫画を高く評価していたのも、漫画読みにはほんのりとうれしい。
黒川創がベン・シャーンと岩手県生まれの阿伊染徳美(あいぜんとくみ)という画家二人と、祖母という身近な存在を絡めて放射能と自然災害の恐怖を語る手法がユニークだと思ったし、宮沢章夫の「どこにも行けない」と題されたものは、ボルヘスやカフカやベケットの不気味な物語のイメージの断片を、演劇ワークショップという自身の表現の場に重ね合わせてゆき、それを徐々に練り上げてゆくような気持の高まりが感じられて(それは動揺であったり焦燥であったり滑稽味であったり)それぞれ興味深かった。
また、郡山出身で実家が農家だという古川日出男の、第一次産業を「体の深いところで理解できる者」としての言葉が、シンプルなのに頭の片隅にしっかり残ったりした。
どちらかというと、言葉足らずで若干わかりにくく、全体的にまとまりを欠いた文章のほうが、「その人ならでは」の息遣いが感じられたような印象だった。
やはり言葉は広がりを持つものだなあ、と改めて思う。
で、私自身はどうだったろう。何を読んだろう。
以前、あるマイミクさんが記した何気ないコメントの中に「震災後は、思想書・哲学書を手に取ることが多くなりました。」というような言葉があって、そ、そうなんや・・・とたいそう感服し、今でも時々ふっと思い出したりする。
というのも、不肖私も哲学という学問には昔から少なからず関心を持っていて、ことにフランス構造主義のお歴々、日本だったらそうさなあ、『意識と本質』なんかが読めるようになればうれしいねえ・・・くらいの野望をささやかながら膨らませていた。まずはこれとこれ、しかる後にこれ・・・という具合に脳内で著作リストを作成しており、きっかけ一つで踏み込む用意はあったのである。
ところが実際は、惨事を目の当たりにしてそれらの本の数々はサーーーーッと引き潮のようにすみやかに遠方に霞んでいき、その代わりに眼前にどんどん飛び込んできたのは、恐るべき苦難に立ち向かってガシガシ突き進んできた人物の、「これがオイラの生きる道!」的な評伝・自伝、それらを絡めたエッセイの類、そしてもう一つは「ほんの少し昔の日本人の姿」を描いた本だった。
まあ、もともとそういう本が好きだったというのもあるけれど、「大丈夫大丈夫、こんなにわけのわからないパワーを持った人がたくさんいるんだから、こんなすごい人たちがこうして今まで積み重ねてきたんだから・・・」と自分に言い聞かせて、半ば無意識に、沈みがちな気分を紛らわそうとしていたのかもしれない。(あるいは、哲学という学問が私の資質にまったく向いていないという大きな可能性)
で、「私がもし新潮4月号に寄稿するなら」・・・やってみました。
硬軟とりまぜて(・・・ってゆーか硬い本ない)。
◆高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』『市民科学者として生きる』
◆網野善彦『日本の歴史をよみなおす』
◆宮本常一『忘れられた日本人』
◆柳田國男『遠野物語』
◆中谷宇吉郎随筆集
◆『イエスの言葉 ケセン語訳』山浦玄嗣
◆小田嶋隆『地雷を踏む勇気』『その「正義」が危ない』
◆武満徹エッセイ選−言葉の海へ−
◆『われらも終には仏なり』石牟礼道子・伊藤比呂美
◆『風雲児たち』みなもと太郎
(現在「蘭学大弾圧時代」の真っただ中。仕事中に目にした「弊社」を「蛮社」と空目してしまうくらいの入れこみぶり!)
(2012年3月14日記)