an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

読書の秋

・・・と月並みなタイトルを付けてみたが、私なんぞは秋だろうが暑かろうが寒かろうが、忙しかろうが暇だろうが、要するに年がら年中何かを読んでいるのである。好き、というのはそういうものだろうと思う。ちょっと前まで、フフッ・・この本おもろい・・とひとりごちていたものが、ここに書いて伝えることによって誰かの興味をひいたり、違う見方に気付いたり、面白さを共有できたりしてさらに楽しくなることを知った。
・・・というわけで、秋のプチ・レビュー、まいります。

◆異色の哲学者・福田定良『落語としての哲学』を読む。

タイトルからもわかるように、落語について哲学的に考察を深めた書・・・ではない。
一言でいうなら、著者とちょっとした関わりを持つ人物や書物を元ネタにした、対話形式ですすんでいく軽妙小噺だ。一見ユーモラスな落語風味だが、テーマは「気」「モノ」「コト」などといった、つかみどころがなく一筋縄でいかないものばかりで油断ならない。駄洒落と思索の間をおぼつかない足取りで行ったり来たり、狐につままれたような気分のまま読み終えた頃に著者の含み笑いの気配を感じるような、そんな一品。
身近な「モノゴト」が思いもよらぬ形で提示され、デタラメな言説にまんまとのせられ、ふと気がつくと“日本人の精神性”なるものをつらつら考えてしまう仕掛けになっている。天野祐吉糸井重里が愛読していたというのも納得だし、たぶん宮沢章夫なんかもこういうの大好きだと思う。そんな、哲学の本。面白いけど、変。

黒川博行さんのヤクザ小説が面白くてやめられない。夢中。
どれもそこそこボリュームがあるのだが、『疫病神』『国境』『暗礁』・・・とガツガツ読みきってしまい、『螻蛄』の文庫本化を今かと今かと待っている。
(これらはシリーズ本なのです)

登場するのはどいつもこいつも薄汚い金の亡者で、かっこいい正義の味方は1人も出てこない。複雑に絡まる黒い利権と泥臭い関西弁の応酬、そして「逃げる者と追う者」(←この設定はエンタテイメントの原点にして頂点かも)。二転三転する展開に興奮するのはもちろん、跳梁跋扈する悪党どもから滲み出る「トホホ感」は妙にリアルで味わい深いものがあるし、時に気丈な女が登場して舞台を華やがせるのも好ましい。
そうねえ、ここは阪本順治あたりに監督をお願いして映画化・・と思ったが、腐敗した警察組織、産業廃棄物処理業者、北朝鮮、何かとよろしくない噂のつきまとう某配送業者、そして新興宗教・・・こんなもんをネタにした映画に金が集まるわけないな。

◆前述したキッツい小説と併読しているのがこちら、
丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』。

丸谷才一が腕によりをかけて選んだ書評集だけあって、アントニー・バージェスが評した『ユリシーズ』、ジョン・ベイリーが評した『存在の耐えられない軽さ』、ジョージ・スタイナーが評した『ベンヤミン著作選集』等々、すごいことになっている。
かの国の「書評」は、芸と風格において日本のそれとはちょっと、比べ物にならないらしいのである。(←明言されているわけではありませんが・・・)確かに、冒頭からたいそう手の込んだ技巧を凝らした文章で、短い文中にあらゆる博識が効果的に散りばめられている。洗練されたジョークを織り交ぜた緩急のある読みやすい訳文だとは思うけれど、なかなかの難物にて私の力では時間がかかりそう。
もう少しがんばります。


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     一期にして
     ついに会わず
     膝を置き
     手を置き
     目礼して ついに
     会わざるもの


                        石原吉郎「一期」


・・・詩人の意図するところがはっきりわかるわけではないけれど、なんとなく凛とした潔い雰囲気が好きだなあ、と思って記憶に残っている詩だ。
鮎川信夫の評論集『すこぶる愉快な絶望』(←すごいタイトルですねえ)を読んでいてこんな箇所に目が止まった。

どんな人との出会いにも、「一期にして/ついに会わず」を基本とすれば、失望したり落胆したりすることはない。一期一会に執するのは、かえって野暮の骨頂である。(中略) 出会いに過大な期待をかける心理と人の裏切りに怯える心理は同根であるが、石原は「一期」の発見によって、それからはじめて本当の意味で自由になったのではないだろうか。

「出会えなければ、それはそれでよい」という言葉が新鮮に響いたのは、そんなふうに言う人は他にあんまりいないからだ。鮎川信夫の言ってることはドライでちょっとやりきれないなと思うけれど、しんどい時にひょいと思い出しては安心しそうなフレーズで、心に残りそう。

(2009年9月26日記)