an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

北の無人駅から

残念ながら差向いで話をする機会になかなか恵まれないが、「ICT」とか「アントレプレナー」とか「社会参画」とかいった言葉をナチュラルに口にし、多忙な日々の合間を縫っては被災地に足を運ぶ、知的でエネルギッシュな同僚がいる。万事にものぐさで日陰者のわたくしのような者からすると実に眩しい存在なのだが、彼女はある時期からさかんにこう言い始めた。
TwitterfacebookPinterestが楽しくてたまらない。世の中は素敵な人で満ちている!」 ・・・・・そ、そうだったのか。
行政系や福祉系の仕事周りはどうも退屈な感じの人(←オマエもな。笑)が多いな・・・と密かに思っていたのだが、なるほど、「ステキに刺激的な人」はネットの中に犇めいていたのね!何が本当なのか見えづらい今の世の中、多くの人の見解に耳を傾けるのは無駄ではあるまいし、あっと目を引く「おもしろい人」が続々現れるとなれば活用しない手はない。
ツイッターでは少数の著名人の他は出版社や映画館や美術館ばかりをフォローしてもっぱら「ぴあ代わり」として使っていたが、古今東西の諸問題に関心を持つ「意識の高そうな」市井の人を軟派から硬派まで幅広く眺めてみることに。

・・・・・・ところがどうでしょう。
何をもって「おもしろい」「素敵」と感じるかの資質の違いであろうか、はたまた人間的な器の大きさの問題だろうか、「ぜひともお近づきになりたい」と身を乗り出すような人よりも、なんだコイツと思うような人ばかりが目についてしまうのだ。
ここは20代30代の若さにして盤石の構え、揺るぎない主義主張でいっぱいだ。この自信満々・余裕綽々の断定口調はどうだろう。
世の中の事象はもちろん、親しい人間の言動すらわからないことばかり。一生かかってようよう自分のことがわかるかどうか・・・と思っている私などは感心を通り越して早々に辟易してしまった。「人は事物の名を知ると、その名に依って表される内容の全体を知ったかのように思い込むものである。」・・・たまたま読んでいたきだみのるの『気違い部落周遊紀行』の一節に、しみじみと頷いてしまう。
目下多くの人が注視している原発問題や慰安婦問題、在日コリアン差別問題ともなると、異論を寄せつけない人同士がおそろしく口汚い言葉で罵り合っていたり、著名人に難癖を付けることでナニゴトかを成し遂げた気になっている人、冷笑風味の捨て台詞、柔軟性とユーモアを欠いた品の無い発言・・・・・・なんだかもう、本当にうんざりしてしまった。
駄目だ、ツイッターから「ステキ人」を嗅ぎつけるのは私にゃ無理。撤退する。


・・・となると、やっぱり得意分野から探し出すのがよかろうよ。
はい、早速すばらしい労作に出会いました。

北の無人駅から

北の無人駅から

フリライターである彼の前作『こんな夜更けにバナナかよ』は、タイトルの妙もあり話題になったのでご存じの方も多いかと思う。「ちょっといい話」では済まされない障害者とボランティアのデリケートな関係を長期にわたって取材し丁寧に描き出したもので、対人援助者だけでなく広く一般の人にも得るものが多い好著だったが、本作もその姿勢が受け継がれたものとなっている。

著者が愛してやまない北海道の「無人駅」を背景に、その町の歴史・産業・生活・人を丹念に追い、安易には白黒つけられない地域の複雑な問題の様相を一つ一つ掬いだす。
無人駅と鉄道を起点にしながらも、いつしかテーマが多方面に広がり、農業、自然保護、観光、過疎、限界集落市町村合併地方自治と、やがて「北海道」そのものに重点が移っていった」のは、「本当のこと」を書かなければならない−という著者の強い思いだった。が、ノンフィクションにありがちな過剰な気負いやセンチメンタリズムとは無縁だ。
著者はさらさらとしたややクールな筆致で、あらゆる方向から「現実」にピントを合わせようとするが、考えるほどにその焦点はぶれ、何が正しいのかわからなくなる。本書はいろんな意味で、煩悶の軌跡といっていいかもしれない。
しかし、誠実さと執念深さを持って地元の人たちの懐に飛び込み(←これがどれほど困難なことか・・・)、「最初に無人駅の取材を初めてから12年」という積み重ねは、絡み合ったものがゆっくり解けてゆくような静かな興奮と信頼に足る重みとがあり、次から次へと初めて知ることばかりが登場するし、なにしろ筆が丁寧で細やかなエピソードや対話が盛り込まれて物語的な陰影もあり、ページを繰る手は止まらない。
本作に登場する人すべてに敬意を表しつつ、各章をご紹介しよう。

第1章 駅の秘境」と人は呼ぶ     【室蘭本線小幌駅
第2章 タンチョウと私の「ねじれ」  【釧網本線・茅沼駅】
第3章 「普通の農家」にできること  【札沼線新十津川駅
第4章 風景を「さいはて」に見つけた 【釧網本線・北浜駅】
第5章 キネマが愛した「過去のまち」 【留萌本線増毛駅(上)】
第6章 「陸の孤島」に暮らすわけ   【留萌本線増毛駅(下)】
第7章 村はみんなの「まぼろし」   【石北本線・奥白滝信号場】

第1章では、酔っ払ってトンネル内で寝込み列車に足を切断された「両足のないアイヌ人漁師、陶文太郎さん」の登場に度肝を抜かれ、続く第2章ではタンチョウをめぐっての自然との距離の取り方の違いにううむと唸る。第3章に登場する「新十津川」が、奈良の秘境・十津川村からの移民者が造った町だったとは驚きの事実だったし、このような移民者や囚人たちがどのようにして開拓を行ってきたかの記述には歴史の厳しさを痛感する。
「おいしい北海道米」を作るため、農家とJAと自治体とがまさに血のにじむような努力をしていること、理屈では割りきれないお互いの「持ちつ持たれつ」「腐れ縁」の関係性(これを読まなければTPPを真面目に考えることもなかった)、ニシン漁で栄えた町の享楽と衰退、市町村合併による人間関係の錯綜と水面下の悲喜こもごもを様々な立場から探った第7章も一大ドラマだ。
・・・・・・まったく、世の中はなんと微妙なバランスで成り立っていることだろう。そしてまた、なんと多彩な人たちで形作られているのだろう。
各章の末尾には町の基本データや地図をはじめ、テーマをより理解するためのグラフや写真を含めた膨大な註と参考文献が提示されており(この註がまた、読み応え満点なのだ)、本書の厚みは約40㍉、堂々たる大著の風格だ。

「豊かで雄大な自然」「悠久の大地」「ロマンチック北海道」などのキャッチコピーのイメージに根底から揺さぶりをかける本書、近々北海道へ行く予定の人も、そうでない人もぜひ読んでみてほしいと思います。
http://www.tsuchibuta.com/jr-hokkaido/jr-hokkaidotop.htm
↑こちらのページを見ながら読むといっそう気分が盛り上がること請け合い。



最後に、無事に書き上げた安堵のため息のような著者の言葉を拾っておこう。

一つの「村」の始まりから、その終焉までを見届けたいま、あらためて実感するのは、時代とか社会とか制度とかではない、人間という存在そのものの難しさでもあり、そのおもしろさ、たくまさしさでもあった。

2013年7月9日記