an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

ゴヤ、フェルメール、ラピスラズリ

中国から来た至宝「清明上河図」が大盛況の国立博物館をはじめ、今冬の東京の美術館は眩いばかりだ。
いいないいな〜、私も見たいな行っちゃおうかな〜、ほら「ぷらっとこだま」使ったらけっこう安くで行けるしさあ(三時間半もかかるけど!)、などと勢いづけて・・・・・・

          行ってきました。この二人に会いに。

      
          ◆国立西洋美術館ゴヤ 光と影」◆

      
 ◆Bunkamura ザ・ミュージアムフェルメールからのラブレター展」◆


行けるものならルーヴル美術館よりプラド美術館に行ってみたいと思っている私、ゴヤの絵を見るのを楽しみにしていた。
ゴヤといえば堀田善衛先生よね、とエッセイ集『スペインの沈黙』を拾い読み、「何しろ近代の出発点でボコッと岩のようにそびえ立った人でありながら、人間的にも政治的にも右往左往・・・・・・。ですから、現代という混迷のなかにあるわれわれにとっても、本当に示唆するところの高い人だと思いますよ。」なんていう発言にほお、そうなのかーと思ったり、「何といってもゴヤの絵は面白いです。」というシンプルな一言にときめいたりしながら準備万端、いざ出陣。
あいにくのどんよりした寒空だが(←またしても雨女の実力を発揮)、上野駅に降り立つと、そこには早くも熱気を帯びた人波が。そしてもちろん名高い「着衣のマハ」の前には途切れることなく人垣ができていて、いい位置から全体像をじっくり眺めることはかなわない。あっちからこっちから四苦八苦しつつ覗き見た実物を前にしてまず感じたのは「わ、かわいい顔してるな」という、言ってしまえば実に他愛ないものだった。
が、挑発的な視線を投げかけて誘惑する気満々のcoquettishな女のイメージが強かったので、あどけなさを宿した笑顔の中に何か新しいものを見出したような、私なりの新鮮味を得ることができたのだ。こういうのが実物を観る醍醐味だな。

正装した貴族など、大型肖像画に描かれる人物は表情や色使いがやや平坦に感じられるのにくらべ、「ロス・カプリーチョス」「戦争の惨禍」などの“寓意に満ちた幻想版画シリーズ”に現れる農民たちや動物の姿に揶揄される聖職者、戦争の混乱と傷跡、魔女や怪物などは、表情も動作も妙にいきいきしていて野蛮なパワーに満ちている。(闘牛をモチーフにした作品でも、描くのは聴衆が悲鳴をあげる事故場面だったりするし)
むき出しの歪んだ表情や凄惨な場面を凝視し、権力者を嗤い、この世ならぬ異形のものを描いて人の心を素手でガバッとわしづかみにする男、フランシスコ・ゴヤ
・・・なんとなく、人が嫌がることを平然と言ったり描いたりする、わりとヤな感じのおっちゃんだったかもな、と思ったりしました。


      
      「魔女たちの飛翔」    ミステリアスな絵です。

      
      「猫の喧嘩」    猫がかわいくないのがいい(笑)。

同時に開催されていた「ウィリアム・ブレイク版画展」もぬかりなく鑑賞。
6本の足を持つ蛇に咬まれて苦悶の形相を浮かべつつもその蛇と一体化した人物図(ダンテ『新曲』「地獄篇」挿絵)とか、人々が川から首だけ出してプカプカ浮いてる風景図(同「愛欲者の園」挿絵)などのシュールな版画を眺めつつ、「やっぱりこの人って向こう側へイッちゃってるな・・・」という思いを強くしたのだった。


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「本好きにはたまらぬ店」というウワサをききつけ行ってみました、代官山は蔦屋書店。
恥ずかしながらわたくし、代官山などという所へ足を踏み入れたのは今回が初めてである。ミルクティー色のトイ・プードルを連れたセレブ奥様みたいなのしか歩いてなかったらどうしよ・・・(←私の想像力はこの程度)と若干の場違い感を抱きつつ、うつむき加減の早足で目的地へと向かう。

      

ガラス張りの瀟洒な店舗、広々とした明るい店内は囁くような音量のエレクトロニカが耳に心地よく、2階はこれまたゆったりとしたコーヒー・ラウンジ。
本の質・量・配置センスもさることながら、アート、デザイン、写真などのコーナーでは大判の洋書が素敵なインテリアとともにカッコよくレイアウトされていて何処を見てもため息モノの贅沢さ、一分のスキもない洗練ぶりである。
店内を歩く人は皆なにやら主義主張ありげな“只者でない感”を放っているし、外国人も多い。MacBookAirを軽快に操るお兄さんお姉さんなどは全員エグゼクティヴに見える(ホンマはニートかもしれんけど)。

・・・・・・な、なんだあここは。ニューヨークか!マンハッタンのリゾーリ書店か!                (↑他に言い方はないのか)

あまりのおしゃれさにすっかり気圧されて、結局ものの30分ほどでこそこそと退却してしまいました。・・・・やっぱ素直に神保町方面へ行くべきだったわ。
驚くべきことに、このオサレ書店は深夜2時まで営業しているそうだ。軽く飲んだ帰りにチラッと寄ってロベール・ドアノーの写真集を買って帰ったりするわけね。
なんか・・・・・・無性にいろいろうらやましいぞ!(←?)

さて、東京へ来て毎回感心するのは交通の便がすばらしくよいことだ。
おっと乗り遅れた、と思うそばから次の電車がやってくる。蜘蛛の巣のようにビッシリはりめぐらされた地下鉄のおかげでどこにでもすぐに行ける。ゴージャス書店は深夜まで営業しているし、どこも人と物と音と情報で溢れかえっている。ゴヤフェルメールの作品が同時期にやってきて月曜の朝でも美術館は大入りだ。
それがなにか?フツーじゃん」と思った東京在住のそこのあなた、いや、これらはすべて異常です。


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ひんやりと透明感がある空気に差し込む光、交錯する視線、大理石の床の格子模様、絹擦れの音・・・フェルメールの絵は見ているものを中世の静けさへといざなう。
毛皮をあしらった黄色の衣装に身を包んだ「手紙を書く女」の優美な微笑みにうっとり見とれたが、「手紙を読む青衣の女」もまた魅力的だ。
絵の中でひときわ目を引く青色、ウルトラ・マリン・ブルー。
この美しい青を作り出す青金石をタイトルに掲げた流麗な幻想小説を紹介しよう。
山尾悠子ラピスラズリ
著者の小説を読むのは初めてだ。ネット上で目にするレビューがどれもこれも尋常でない調子の絶賛の嵐で、「一体この人は何者?」と訝しく思っていた。女性でSFを書く、というのも希少だと思うし。(私はあんまり小説を読まないので詳しくないのだが、女でSF作家なんて萩尾望都新井素子くらいしか思いつかないぞ)
そんなこんなで興味を持っていたら、折りよく文庫が目についたので早速手にとってみた。

深夜の画廊、古い三枚の銅版画を前に「画題」をめぐる二人の男の会話から幕を開ける。絵にちりばめられた謎を解きほぐすべく、中世ヨーロッパとおぼしき舞台から徐々に物語は展開してゆくのだが、ミステリーを追うつもりでどんどん読みすすめても、いわゆる「謎解き」はなされない。不可思議な現象は破滅的局面を暗示するにとどまり、面妖な人物が次々に登場するが、どこにも落ち着くことなくただ揺曳する。そして冬の訪れとともに霧はいよいよ深まり、人々は病んでゆく(痘瘡の蔓延!)。
物事が納得できるところにキチッとおさまる安定感(もしくはカタストロフ)を小説に求める人であれば、不完全燃焼による異物感か、1人取残されたような落ち着きのなさが残るかもしれない。「・・・今、何が起こった?」と。
私などが言うまでもないが、この小説の読みどころは「怪現象の解決」的なものとはまったく別のところにある。
神秘の象徴をふんだんに織り込みながら、幻想の世界をここまで絵画的なイメージに高める緻密な文章はちょっと比類がなく、複雑な模様を編みこんだタペストリーを思わせる(部分的にはわからないが、全体像を見てはっ!と息をのむ、というような)。
ことに最終章でのアッシジの聖フランチェスコと名もなき冬眠者との対話シーンがすばらしく、ここにいたってようやく「冬(冬眠者):滅びゆく世界 → 春(天使の出現):再生する世界」の具象化という、基底に流れるテーマらしきものがおぼろげに浮かび上がるのだ。うん、なかなか刺激的な読書体験だったな、これは。

最後に、解説の千野帽子さんの粋な言葉を載せておこう。

      「再生するためなら 世界は何度でも滅びる」



2012年1月26日記