an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

母の遺産

ではでは、いつものように最近読んでおもしろかったものを取り上げてみよう。


水村美苗『母の遺産』◆

水村さんについては『續明暗』の頃からその高評は知っていた。
デビュー作でいきなり『明暗』の続編を創作したり、いうなれば日本版「嵐が丘」に挑んだりとの蛮勇もさることながら、何かを書けば賞を取るという恐るべき人で、対談相手は辻邦生、配偶者は岩井克人・・・その華々しい経歴と気位の高そうな猫を思わせる風貌、なんかもうオイラ手も足も出ねえや、という感じで、恐れ入って敬遠していたようなところがあった。
それが書店の片隅でウィリアム・モリスの装画がチラッと目に入った途端「あ、読んでみよ」と、ひょいと手に取ったのだから本との出会いはわからぬもの。

ところで、この小説のサブタイトルにもなっている「新聞小説」を毎日楽しみに読んでいたことがある、という人はどのくらいおられるだろう。
私は先ごろ初めてその機会を得て、桐野夏生の掲載小説を毎朝欠かさず読んでいた。
ある専業主婦が家族(旦那と息子二人)からの無神経な言葉に逆上して突発的に家出、さあどうなる!?・・・とまあ、イマイチそそられない内容だったのだけど、旦那と大学生の息子の“嫌な奴ぶり”の描写がすばらしくて(日頃さんざん世話になっているくせに、しかも小心者のくせに身近な中年女性を小馬鹿にする、あの感じ!)、この後なされるであろう彼女の猛反撃をつい見たくなってしまったのだ。
女の内面の暗部を描かせて定評のある桐野さんのこと、ことによると流血の大惨事が繰り広げられるのか・・・いやいや新聞紙上だしそこまでは期待できないな・・・まて、村上龍のあの血みどろ殺戮小説『インザ・ミソスープ』(←傑作です)はたしか読売新聞の連載だったはず。
ま、なんにせよ胸がすくような(もしくは胸が悪くなるような)結末にしてくれるに違いない・・・などと起き抜けのアタマでつらつら思いつつ追っかけていたのが、ある日突然、本当に唐突な感じで終了してしまったのである。(もしや「第一部・完」かとも思ったが、翌日からナニゴトもなかったかのように池澤ナッキーの新連載が始まったのだった)
彼女はひょんなきっかけでお世話になった老人の戦争体験を聞いてひとしきりしんみりした後、一転「今から私は新しい道に進むのよ!キリッ」みたいなことを清々しく宣言してそのまま物語は幕を閉じるのだ。ポカーン・・・
いきなりそういう心境に至るのも不自然だったし、伏線ふうに登場した正体不明の人物たちの言動も何一つ解決していないし、エンタテイメントとして消化不良も甚だしい。
いやはや、プロの小説家が途中で作品を放り投げるってこと、あるのね〜(そうとしか思えん)。

まあそれは置いといて(前置きが長いな)、『母の遺産』である。
老いた母親の介護と夫の不倫をきっかけに過去の様々な確執を思い起こし、苦悶しながら生きる道を模索する50代女性・美津紀の物語・・・などというと、これまた辛気臭そうと感じる向きもあろうがさにあらず、実に堂々たる出来栄えの小説なのだ。
上昇志向の強かった祖母や母親に翻弄される姉妹、その姉妹間での微妙な距離の置き方、そして配偶者の裏切りへの決着のつけどころ・・・というわりに感情移入しやすい設定と堅実な文体で一気に読ませるが、なかなかどうして、随所に凝った仕掛けがなされている。
大人気だった新聞小説金色夜叉』のお宮さんやボヴァリー夫人に自身を重ね合わせようとした祖母や母の人生の一瞬の輝き、そしてその末路。若い美津紀は念願かなってパリへ留学、夢のような恋とその行方・・・人と人との埋めがたい心の隙間から生じる「どうにもならない哀しみ」を物語の基底に静かに響かせ、それをじっと見据えて行動する主人公の潔さを描く。うわカッコイイなこの人、と思わせる力がある小説だ。
若さや美醜、経済力が女性の生き方にどんな影響を与えるかを冷静に受け止めたり、「自分を苦しませたのも母なら、救ってくれたのもまた母だった」というこの物語が持つほろ苦いアイロニーは、著者ならではの着目点かもしれない。

母がようやく亡くなり、やれやれってことで自分の身の振り方をゆっくり考えるため箱根に長期滞在した美津紀が、ある不思議な体験をするところも印象的だった。
そのホテルでは「マダム・ボヴァリー」と完璧に発音する、美青年を伴った謎の老婦人や影のある魅力的な壮年男性、わけあり風の母娘など、いかにもミステリアスといった人たちばかりが登場し、しかも一連のエピソードはファンタジーといっていいくらいありえない展開なのだけど、読者のための「小説としての華のある場面」を大いに楽しむことができた。

蛇足ながらあともう一つ下世話な話を加えるならば、美津紀が夫の不倫メールのやり取りを盗み見するスリリングなシーンがあるのだけど、迂闊なことで浮気がばれる経緯も含めて、その内容にはすんごいリアリティがあったなー。
不倫相手の女性が、夫婦の財産を現実的かつ緻密に計算して(年金の合意分割がどうとか退職金の財産分与がこうとか)「こうすれば奥様も納得、万事OKよ」とばかりにメールで悠々と離婚を迫るわけ。
いや〜、不倫相手の女がこうなるともう逃げられないよ男性諸君。


(2013年2月5日記)


・・・出てるがな(笑)。髙村薫ばりに加筆した?