an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

「人は死なない」

「日本と呼ばれる列島との、見えたり見えなかったりするつながりで、
自分がどこにいるのか常に問うこと。」


      


      


「思わぬことが起こったら、そこで立ち止まり、
20秒ほどかけて(もっと考え尽くすために)よりよい姿勢をとること。」


      


      


「常に、ひとであるより肉体であるよう努めること。」


      


      


      


          養老天命反転地へ行ってきました。


ご存知の方も多いと思うが、ここは「荒川修作+マドリン・ギンズの構想を実現した実験的アートプロジェクト」であり、「現在の世界の絶望的な状況を希望ある未来へ転換させよう」とする意志を具現化した場であるとか。
のどかな田園風景に突如として現われる奇怪な建築物にまず目を奪われ、急斜面で囲まれたすり鉢状のフィールドの中には意味不明の歪んだオブジェ、落ちたら大怪我必至の深い溝、頭を強打しそうな狭い出入り口の迷路が、こんもり茂った木々の間を入り組み錯綜する。今日びは「万一大事なお子様に怪我などあっては・・・」と、ちょっとした遊具にも神経質になっているところが多いだろうに、「クレーム上等」といわんばかりのこの危険な状況、見上げたものだと思うのである。
恐る恐る急勾配の土手を降りたり突起の多い石場を登ったり、手探りで暗いトンネルに進入したりするうちに、小さい頃に遊んだ記憶の断片みたいなものが一瞬頭を過ぎり、くらりと軽いめまいがしたりする。ほんの少し足場や視界が不安定になるだけで、あらゆる感覚がデリケートになるらしい。5月のさわやかな新緑と陽気にこの不思議な感覚が相まって気分は上々、まったくもっておもしろいところだ。
パンフには「身体感覚の変革により意識の変革が可能」云々といったしかつめらしい文言が続くが、鬼才・アラカワは、どうだすごいだろう、俺の作ったものに触れて未知の感覚を楽しめ、と言っているような気がするよ、うん。

私は荒川修作のことはほとんど何も知らないのだが、「人は死なない」という彼の言葉だけは以前から知っていた。たとえ肉体は死んでも、その精神は作品の中に(あるいはどこか別の世界で)生き続けている・・・くらいの謂だろうけど、もう一捻り欲しい比喩だな、などと思い特に気に留めていなかった。
ところがある時、保坂和志のエッセイの中にこの言葉が登場したので「えっ」と思いつつ入念に文章を追い始めた。保坂は父を亡くした日を振り返りながら、荒川の思いを慎重な足取りで追ってゆく。その日、葬儀屋との話が一段落してかつて父が過ごしていた部屋でうとうと居眠りをしていた。窓からは心地よい風が吹き抜ける。

そのとき私は、父がここにいると感じた。(中略)私は「人は死なない」という言葉の一端に確かにふれたと思った。(中略)これを錯覚とか思い込みの類と思う人は、絵も音楽も何もわからない。芸術というのはつねに何かを心に留めて、結論に安易に逃げ込まずに心を宙吊り状態にしたまま、世界に対して注意を払いつづける人にしか働きかけない。そこで語られる言葉は、たくさんの人に通じる類の、科学的思考の中でも最も大ざっぱな思考を基盤としている日常的思考様式で語られる言葉ではない。
パウル・クレーの絵を見た瞬間に「動いた!」と感じた経験。『春の祭典』を聴いていたらオーケストラボックスに色彩の波が起こるのを見た経験。それらの経験が自分の中で、時間の経過とともに動かしがたくなるように、長椅子でうとうとしていたあのときに、庭から吹いてくる風とともに「父がここにいる」と感じた経験は確かなものとなっていく。これは「人は死なない」という言葉への道筋となるはずだ。

なにしろ保坂和志の文章であるから、こうして切り刻んで一部だけ持ち出しては何かが微妙に変色してしまいそうだけど、この表現は私の心にごく自然に、そしてとても魅力的に響いた。父がここにいる。本当にそうだったんだろうなと思う。
「人は死なない」・・・その言葉の道筋を、右往左往しながら追っていくことにしよう。



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さて、今回この「養老天命反転地」へやってきた目的はもう一つあった。
5月19日は荒川修作の命日ということで、舞踏家・田中泯さんの「場踊り」が
あったのだ。


      

題して「荒川修作・・・to be continued 〜田中 泯「場踊り」be in ARAKAWA」

「踊り」とはいっても、彼のそれは音楽に合わせてリズミカルに体を動かすようなものではなく、パントマイムや演劇に近い前衛的な身体表現・・・とでもいったところか。
今となっては「土方巽を観たことがある」という人も少なかろうし、おおよその雰囲気としてこちらなどを少し参考にしていただいたらどうだろう。http://d.hatena.ne.jp/yoneyumi0919/20111125/p7

丘の上に寝そべった姿勢から徐々に首をもたげ、花が開くように手足を広げてゆく。ボロきれのような着物に下駄、大きな黒い帽子を目深にかぶって表情はうかがえない。
やがて彼は斜面をゆっくりと音もなく転がり、動的な流れに移ってゆく。
高まる緊張感。

・・・と、ここでいろいろと問題発生(・・・というか予感的中というか)。

まあ、この公園自体は子供にも楽しめるであろうということで妹とそのチビ二人を伴って来たのだけれど、当然ながらチビどもはこういった「芸術」をおとなしく鑑賞するはずもなく、なにやら大きな声で騒いでスタッフのお姉さんに窘められているのを謝りに飛んでいったり、どこかの穴に落ちてないか見張ったりを大人が交代でする必要があるし、舞台も客席もない野原の窪みにこの人垣、どうしても部分的にしか見ることができないしで、ううむ、困った集中できん、などと思っているうちに小一時間の舞踏は終ってしまったのだよ・・・・・・無念なり。

・・・その代わりといってはなんだが、『ほかいびと〜伊那の井月〜』という田中泯主演映画が上映間近であるという興味深い情報を得た。

幕末から明治の時代を駆け抜けた漂泊の俳人である、井上井月を演じるそうだ。
山頭火経由でこの人の名をご存知の方は多かろうが、私はつげ義春の小品で知ったクチだ。“謎に包まれた漂泊の俳人”などというとかっこよさげに聞こえるけれども、金も職も住まいも家族もなく、酒とともにあちこち放浪した、まあいってみれば乞食みたいな人だったわけである。「野垂れ死を描かせて日本一」の容赦ない漫画家が描く詩人は酔狂で悲惨で、鮮烈な印象を残した。
そんな人を田中泯が演じるだなんて・・・・・・はまりすぎてこわいくらいだ。
今度はスクリーンで、じっくりその姿を味わいたいと思っている。


      

          濃く薄く 酔ってもどるやもみじ狩



(2012年5月23日記)