an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

『八犬伝』

雄渾豪壮にして波瀾万丈、まさに「妖夢のつづれ錦」のごとき「虚の世界」と、滝沢家の平凡な生活、というより狷介・剛腹・吝嗇、著しく協調性に欠けた馬琴の「実の世界」が入れ子になって進行するのである

関川夏央の書評風文学エッセイ、『本よみの虫干し』の中の一節である。
そろそろ彼の長編小説を一つ読んでみるか。どれにするかな・・・と膨大な小説群を前にして長らく手をこまねいていたのだが、上記紹介文を目にして即決した。
山田風太郎八犬伝』。

里見八犬伝・・・たぶん、ほとんどの人は「妖犬・八房の妻となった伏姫が八つの玉(八犬士)を生み出し、正義の味方である彼らが、次々と悪人を成敗する話」くらいにイメージされているだろうが、ズバリそのとおりである。

物語の発端、そして作品を貫いている主題は「敵討ち」による「勧善懲悪」である。原作は「四百数十人の登場人物すべてに対し、善人には善果を、悪人には悪果を与えて「勧懲」し、延々たる講釈と説教を書き連ねた」、途中で辟易しそうな代物らしいのだが、そこは山田風太郎の筆である。それぞれ個性が際立つ八犬士(異形の装いで登場、青白い火のような怜悧な凄みのある犬山道節と、妙なソーロー言葉を使う9歳の怪童子・犬江親兵衛が好きだなー)の活躍、夥しい姦計、人外境の妖婦と快美にふける悪党ども、微笑を浮かべる生首、猫に憑かれた剣士、疾走する神馬、伝説の名刀からのぼる血けむり・・・百鬼夜行の名場面ダイジェストが目にも鮮やかにテンポよく語られ、息もつかせぬ極上エンタテイメントに仕上がっている。その絢爛な「虚の世界」と交互に、影のような「実の世界」を配置したセンスも絶妙だ。
「あたしは、この浮世は善因悪果、悪因善果の、まるでツジツマの合わない、怪談だらけの世の中だ、と思っておりますんで。」なんていう鶴屋南北のしゃれたセリフを聞くまでもなく、苦難の多かった馬琴が何故これほどまでに「勧善懲悪の物語」に固執したのかよくわかる仕掛けになっている。
葛飾北斎渡辺崋山との交流、とりわけ、後に盲目となった馬琴の代わりに「八犬伝」の口述筆記をすることになる息子の嫁のお路、漢字はおろかテニヲハも句読も知らなかった女が、「これは先生のお筆か」と人がたずねたくらい字体までも馬琴そっくりの文字を書くにいたって、「実の世界は、いかなる虚の世界より怪異であった。」と結ばれる。
この先原作を手に取ることはおそらくないだろうが、勧善懲悪の物語の内に、もしかすると祈りにも似た、苦渋のうめき声が聞こえてくるかもしれないな・・・そんなことを思ってしまった。


南総里見八犬伝
世界伝奇小説の烽火、アレキサンドル・デュマの「三銃士」に先立つこと三年。




(2011年7月7日記)