an-pon雑記帳

表現者と勝負師が好きです。

自分が一番つまらない?

4月からプールに行き始めた。
今時スポーツジムはどこにでもあるが、主に予算的事情で条件に合うところがなかなか見つからず、「ううう、体動かしたい。泳ぎたい。」と悶々としていたら、職場近くにナントカ健康増進センターという公立の施設を発見したのだ。広くてキレイなプールにジム、しかも1回ごとの使用料だけですむ。
(フツーは月々の会費が必要で、これがけっこう高いのよ)
プールにはジャグジーやミストサウナもあって申し分ない。ご機嫌で通っている。
・・・が、同じように「こりゃいいや」と思った方が他にもたくさんいたわけで、いつ行ってもプールは大盛況。場所柄もあって、その大半がおばあさんになりかけのおばさん、そしておじいさんになりかけのおじさんである。顔なじみのグループも多く、あちこちで楽しそうなおしゃべりの花が咲いている。・・・そういう年代の方々の話すことといったら「自分の健康状態、もしくは身内ネタのみ」などと揶揄されるものだが、いやまったく、ホントにその話しかしてないね。 比喩じゃなく事実。
その徹底ぶりに圧倒されてそこそこおもしろく拝聴しているかというとさにあらず、大抵はウンザリするほど退屈だ。もう少しなんとかならんもんかね。
・・・と、エラソーに言ってみたがちょっと待て。
そもそも人さまに興味を持ってもらうほど「自分および自分の身辺をおもしろく語る」のはすごく難しいんじゃないのか?そう簡単にできることじゃないんじゃないのか?

まだ正気を保っていた頃の日垣隆が“ライターの基本”みたいな一文の中で、「一番簡単に書けるのは何かを説明する文章である。泣かせることができて二流、笑わせることができれば一流。もっとも難しいのは、他人を興味深く描くこと、そして自分自身を興味深く描くことだ。」(←正確な引用ではありませんが、だいたいこのような趣旨)と書いていて、ライターでもないのに大きく肯いたし、「自分ほどつまらないものはない。」「自分を表現するなんてつまらない。他人を描くべき。」という町田康の言葉に、はっと胸をつかれるような思いがしたものだ。

さあ、そこでだ。
このように、至難の技と思われる「自分で自分を魅力的に描くこと」、すなわち「自伝」において、“自分を語って最高”な本を紹介したいと思う。
よろしければお付き合いください。


◆白鍵と黒鍵の間に −ジャズピアニスト・エレジー銀座編−』南博

著者は、ソロ活動はもちろん綾戸智恵さんや菊地成孔さんら大物のサポートもつとめるジャズ・ピアニスト。不覚ながら私はその音楽をよく知らないのだが、世間的な評価としては「破綻がなく端正な演奏。ジャズ初心者に安心してすすめられる」とのことで、ECMサウンドの代表的ミュージシャンにして著者が最初に衝撃を受け、「Oracleだった」と語る存在、キース・ジャレットの演奏に近いのかな・・・と思っているが、あながち見当違いでもないだろう。

たまたま音を聴くより先に本を手にとってしまったのだが、おもしろい文章を書くミュージシャンということで以前から知られていて、その後順調に続編も刊行されている。
ここではジャズに目覚めた少年時代からバンド活動を経て、時はバブルの全盛期、銀座や六本木の高級バーでピアノを弾いていた頃の体験を中心に書かれている。
夜の店を支配する老獪なマネージャー、普段余計なことはひとつも言わないが、口を開けばそれはそれはおっかないバンドマスター、油断ならない夜の蝶なお姉さんたち、店内スタッフ全員が90度のお辞儀で迎える上客“そのスジの方々”、正体不明のその他諸々の夜の住人たちとの関わりをとおして、いっぱしのバンドマンに成長していくちょっぴりビターテイストな青春記であり、銀座を去り夢のアメリカへ向かう小粋なラストシーンで締めくくられる。
熊の着ぐるみを被って演奏させられ呼吸困難に陥ったり、そのスジの恐い方と一触即発状態になったり、外国人歌手の伴奏に四苦八苦したり・・・次々と笑える珍事が起こるのだけれど、なにやらいつも漫然としていてそこはかとなくトホホな感じの南さんのキャラクターが、これらのエピソードをさらに可笑しく、ほんの少しもの哀しくさせ、うまい味付けになっているのだ。

収入はどんどん増える一方だが、次第に「誰も演奏を聴いてくれない」「何度も同じ曲を弾かされる」ことに耐えられなくなっていく。仕事だからと割りきることがどうしてもできない。

人間というものは、ほっておいたらろくでもないことばかりする。戦争をしたり、地球環境を壊したり。ただただ糞を垂れて死んでいくだけではいやだから、僕は人間にできうる何か美しいものをこの世に提供したいと願う。

・・・・愚直なだけに、本音であることがよくわかる言葉だ。きっと体質がアーティストなんだなあ・・・とついついホロリ。
この作品では意外にも女性の影が薄いけど、こんな人を女が放っておくはずがない。続編『鍵盤上のUSA』ではそのあたりも期待したいところだ。


◆『てのひらのほくろ村』スズキコージ

絵本作家のスズキコージが子どもの頃の思い出を綴った自伝風エッセイ。
幼いころの記憶というものは、色に例えるならば褪せたセピア色、輪郭がボンヤリしているものだが、ここで描かれる一つ一つのエピソードのなんと色鮮やかなこと。
おっかさん、学校の先生、近所の友達、行きずりの人たち・・・がいきいきしてとても魅力的に描かれる。
ゲゲゲの鬼太郎みたいな義眼をしていて、白いよどんだ中に黒い丸があるカッチン玉みたいなのを、目のあった所に入れ、肩には天竜下りのイレズミをしていた」森太郎じいさんがナイスだな。毎日ブラブラしてて、ウナギと間違えてナマズを食ったりするのよね。
本書には小学校の時(!)の絵日記がたくさん掲載されているのだけど、どれもこれも躍動感があって音が聞こえてきそうなほどである。
・・・こんなふうにくるくると鮮やかに、屈託なく思い出を語るこの感じ・・・そうだ『GOTTA!忌野清志郎』を読んだときの感触に似ている。そういえば彼も絵を描く人だった。


◆『エリック・ホッファー自伝−構想された真実−』
最後に規格外の大物を1冊。
・・・とはいってもごく平易な言葉で書かれた、一気に読めてしまう小品である。
“沖仲士の哲学者”として有名なホッファーだが、「社会の底辺で働きながら思索し、著作をものした」彼の苦渋に満ちた半生であるとか、重厚な思想を求めてこの本を手にしたら、おそらく肩すかしをくらうだろう。

小さい頃目が見えなかった。ある時、見えるようになった。むさぼるように本を読んだ。死のうと思った。死ぬのに失敗した。生きるために食べなければならないので働いた・・・淡々とした筆で記述はすすんでいく。
季節労働者としてカリフォルニアを放浪する生活が始まる。プルーンやオレンジや綿花の収穫・・・シンプルな書きっぷりに、アメリカ西海岸の強い日差しと広大な大地とタフで潔い労働者の姿がシンクロする。余計なものが剥がれていくような、すっきりした心持になる。
そんな中、鮮烈な印象を残すのは、やはり道中に知合った様々な境遇の友人たちとのエピソードである。ホッファーの強靭な精神力を作ったのは、名もなき“社会的不適応者”だった。

地球は人間であふれている。町にも畑にも道にも人間はいるが、彼らに注意が向けられることは、めったにない。そしてあるとき、一つの顔が目にとまり、不思議な感覚に襲われる。地球上の何ものとも異なる人間の崇高なユニークさに、突然心を打たれる。神は御心のままに彼を創り給えり。

・・・どうやら、自伝をおもしろくするコツは「自分以外の人間を愛をもって魅力的に描くこと」のようです。


(2011年6月16日記)